簡單說明一下,這是Busness Today針對一系列不同領域之中,極具發展潛力的女性所做的專題報導。西川美和導演被被選為「電影」方面領域的代表。是頗有深度與觀點的一篇評論文,不過當然也涉及了大量的劇情就是了。如果我能更懂電影一點,如果我能更早看到ゆれる一點,也許這部電影可以成為我投女學會所邀請的論文也說不定(哈哈~藉口,因為論文生不出來的緣故 >_<)。因為電影一來還沒上映,二來此文指涉的東西可能有點難,所以當初日本網友找到的時候,並沒有什麼人去討論文章的內容,但是我卻是印象非常深刻。雖然事前不要知道太多東西,看電影時會有很多的驚奇和樂趣,不過在看過了該文之後,反而更讓我期待看到電影的時候的感覺了。

反正是自己的blog,加上自己又很喜歡文中所闡述的東西,索性就貼了上來...(唉..要是金馬影展看不到我肯定會嘔死...)。因為內文涉及劇情,所以我把碎碎念寫在前面,不過,如果是日文障礙者,可能就不用太擔心了(笑),不過,比較難的文章,其實反而懂中文的更容易看得懂(因為漢字比較多^^"),看過文部科學省的報告書的人就知道了..(笑)


日本映画界の新星が描く現代のテーマ(西川導演在坎城的時候遠比照片中的樣子可愛多了~^_^)

今年5月末に開催された第59回カンヌ国際映画祭の監督週間に出品された『ゆれる』は好評を博し、現地入りしていた監督の西川美和と主演のオダギリジョーは、世界の映画業界から一躍注目を浴びることとなった。

初監督『蛇イチゴ』(02年製作)で数々の国内映画賞で新人賞を獲得した西川美和は、この長編第2作『ゆれる』で名実ともに、日本映画界を革新する新星となるだろう。

では、カンヌは西川美和監督の『ゆれる』の何を、評価したのだろうか。

『ゆれる』の主人公は、田舎町で家業を継いでいる生真面目な兄と、東京へ出てカメラマンとして成功しつつある女タラシの弟。この兄弟の葛藤という観点から『ゆれる』を論じた映画評は、すでにあちこちでたくさん出ているので、本サイトでは、働く女性を応援するBUSINESS TODAYならではの、女性側の観点からこの映画の現代的テーマを探ってみよう。

■ 西川美和監督が『ゆれる』で描いた「女」



§ 母親不在による家庭崩壊を象徴する洗濯物シーン§

『ゆれる』の中で描かれる「女」は3人だけである。
まず、主人公である兄弟の母親。映画の物語はこの母親の葬式から始まる。だから母親は登場しない。その不在が、この映画の見えざる核になっている。兄の稔(香川照之)は弟の猛(オダギリジョー)のことを母と似ていると思っている。母親は8ミリテープをたくさん残していた。息子たちの幼少からの記録らしい。ガソリンスタンド店主の父親は朴訥実直な男。寡黙な佇まいだが、時として怒りを爆発させるシーンが2度3度と挿入される。この父親が沈鬱に背中を丸めてうつむいているのは、妻を亡くしたからだろうと想像できる。

父親が不器用そうに洗濯機の洗濯物を取り出し、庭に洗濯物を干しているシーンもある。母親が不在の家の中で、いかに男たちが日々の家事に消耗させられていくかという象徴的なシーンだ。ラストで朽ち果てた家を映し出すシーンでも、洗濯物が干されていない庭先を映している。毎日洗濯をして洗濯物をきちんと干すことが、母親である「女」の存在する家なのだ。葬式が終わった夜、兄の稔が座敷で正座をして洗濯物を丁寧にたたんでいるシーンは、亡くなった母親を追慕しているという気持ちの現れである以上に、母親がいなくなった家の中の空白感を、なんとか埋めようとする長男の、精一杯の努力を表現するシーンだ。


§ 男の欲望に応えるだけの女をさりげなく挿入 §

「女」の二人目は、弟の東京の事務所にいるアシスタントらしき若い女。彼女が登場するシーンは冒頭と終盤の2シーンだけだであるが、弟の猛が東京で恋人などではなく、適当なセックス相手を持っていることを知らせるための大事な役柄だ。彼女は猛の世話をかいがいしくして、彼にうっとりした目つきを向ける。弟はただキス、あるいはセックスをするだけだが、彼女は充分に満足している様子だ。

↑猛的....?(噴鼻血)

こういう女の性質は、男側から見た「女」の大きな半面である。そう、男はある部分では女のことをセックス処理の相手としか見ないのである。そういう男の欲望に応えることだけで満足している「女」。
西川美和はそんな「女」の存在をさりげなく映画の中に挿入することで、セックスの欲望でしかつながっていない男女の関係の核心を描いているのだ。その男女の関係は、洗濯物を毎日干す家の中で繰り広げられる男女の、夫=妻、父=母の関係とは対極にある。


↑時效警察8裡面那個死者唷!

§ “ゆれる”女の作る食事を拒否するシーン§

第三の「女」が、この映画のキーパーソンである智恵子(真木よう子)。

彼女は故郷である田舎町のガソリンスタンドで働いている。店主は幼馴染でもある稔だ。車のフロントガラスを懸命に拭いている智恵子の様子は、彼女が真面目に仕事に打ち込んでいることを現しているが、瞳の奥は沈鬱で暗い。その暗く堅い瞳は、帰郷した猛を見かけたときにパッと火を灯す。

この一連の女心の移ろいを現す数シーンの連続が、実に巧みな映像で演出されている。猛が自分の運転する車で智恵子を送っていくとき、彼は最初、他人行儀で丁寧な言葉使いを使っている。それに対し、智恵子も、昔の知り合いでしかないという程度の距離を保って接している。だがある瞬間、猛ががらりと口調を変え、「今晩、おまえの部屋に行ってもいいだろ」と切り込む。その瞬間の彼女の、一瞬の戸惑いと恐怖、そしてそれらの気持ちとは正反対の燃え立つような官能的期待感を、カメラは的確に捉える。

この瞬間に観客は、ああ、この二人はかつて肉体関係もあった間柄なんだなぁと、正確に気づかされる。

セックスの後、智恵子は冷蔵庫の中の残り物で食事を作ろうとする。彼女は猛が嫌いだった食材をよく覚えている。それを彼女が何気なく言うと、猛はウザがる。そしてさっさと部屋を出て行ってしまう。食事なんかどうでもいい、俺はただ今夜の欲望を処理するためにお前を抱いただけなんだ、とでも言うように。

§ “ゆれる”ことのない女とは §

第一は妻であり母であった、不在の女。
第二は男の欲望相手になるだけの女。
第三は、その第一と第二の間で揺れ動く女。
妻であろうと母であろうと、女である限り、夫に抱かれることだろう。しかし女は、家庭を持ち、毎日の食事洗濯をし、夫や子供たちの世話をすることによって、女として存在性を安定させることができる。つまり“ゆれる”ことがなくなるのだ。男に抱かれるだけの女も、妻=母である女とは反対の意味で安定できる。彼女は、男の欲望に応えるだけでいいのだから。
弟の猛は、セックスの相手が自分の服装の世話を焼くことも、食事を作ることも、ましてや洗濯物を洗って干してたたむことも望みはしない。抱き合って果てればそれでおしまい。何か内面的な事柄を語り合いたいとも思わない。彼女はただセクシーに着飾り、彼の欲望がまた高まり彼女を抱きにくるのを、待っているだけでいいのだ。


§ 母親の生き方への嫌悪が、“ゆれる”女を破壊する §

しかし智恵子は揺れ動いていた。
もっとやりがいを持ってできる何かをしたいという、言い知れぬ夢を持っている。その夢は、猛のように東京に出て行けば叶えられるという、漠然とした期待を抱いてもいる。猛の兄の稔みたいに、田舎町の小さなガソリンスタンドで働き続けるのは嫌だ、と思っている。
だから、稔の曖昧な、それでも圧迫的なアプローチにはうんざりしている。稔のような男に身をゆだねれば、自分の将来は先が見えている。けれども猛と一緒に東京に行けば、何かの夢を叶えられるかもしれない。
智恵子の心の“ゆれ”は、猛に、彼の母親を想起させるものだったに違いない。「働くだけ働かされて死んでしまった」と猛が父親をなじるシーンが、冒頭の葬式の場面にある。猛は、田舎町で夫の仕事を手伝ながら働きづめだった母親の人生に、痛切な虚無感を抱いている。
智恵子が兄の猛と親しげに話しているのを見て抱いた嫉妬心は、父と同じ生き方をしている兄に知恵子が嫁げば、智恵子は母のようになってしまう、という嫌悪感から生まれたものなのだろう。



猛が智恵子を抱いてから冷酷なまでにさっさと部屋を去ったのは、母のようになってしまうかもしれない女の、“ゆれる”心を破壊したかったからでもある。その後、智恵子が、猛と一緒に東京へ行きたいという気持ちを伝えると、猛は実にそっけなく「東京なんてそんないいところじゃないよ」と応える。もっと何か言いたそうな彼女に「俺、ちょっとクソしてくっから」と言って、またもやさっさとどこかへ行ってしまう。そして野辺に咲く花々にカメラを向けることに熱中する。
その猛を追いかけて、峡谷の吊り橋を渡る智恵子。そこで恐るべき事件が起こり、映画から智恵子は消える。そして、兄と弟の内側をギリギリとえぐっていく濃密な法廷劇へ突入していくのだ。



映画の後半は法廷劇が続く。
前半で伏線を張り巡らせていた登場人物たちの心理的な虚々実々が、この法廷劇でサスペンスフルに明るみにされていく。後半の展開の詳細は、映画を観る前には知らないほうが面白いので語らないことにしよう。
ただひとつ、悲劇的事件に見舞われた智恵子の母親がつぶやく、「あの子は、そんな娘だったのでしょうか」という一言が、西川美和監督がこの映画の“ゆれる”女を通して描きたかったテーマを集約しているように思えて、特に強く印象に残る。


§ 西川監督は、現代人の愛の不在を明るみにしたのか§

“ゆれる”現代女性、それが「そんな娘」という一言に凝縮されている。
離婚率が増加し、少子化が拡大する現代日本。恋は求めても結婚は望まない女性たちが増えている。結婚を望まない、というよりも、結婚に意味と夢を抱くことができない、といったほうがより正確だろうか。
結婚に意味と夢を抱けない女たちの前で、男たちの心も虚しく“ゆれる”。結婚という形ある器がなければ、形のない愛は収まるべきところを失って“ゆれ”動くしかないのかもしれない。

そう、『ゆれる』の男たちは一言も、女のことを「愛している」とは言わなかった。西川監督はあえて、脚本の中から「愛」という言葉を省いたのかもしれない。それなのに『ゆれる』からは、人間の心の奥底にあるに違いないと思わせる、何か見えざる熱いものが伝わってくる。カンヌ国際映画祭で『ゆれる』に喝采を送った多くの観客は、その熱い何かに応えたのに違いない。

『ゆれる』は7月8日、渋谷アミューズ、新宿武蔵野館を皮切りに全国23館で順次公開される。

內容來源:http://www.btoday.net/weblog/archives/2006/06/_s_no_1.html

from:あいち国際女性映画祭wrote by cinemadoこのところ、「あいち国際女性映画祭」の「女性」がいったい何を指しているのか、実はあまり知られていないようだと感じることが結構あります。事務局への問い合わせなどでも、「この映画祭は男性でも観られますか?」などと問い合わせが入ったりするらしいです。もちろん、「女性」監督の作品を集めた映画祭という意味で、決して女性だけが観るためのものではなく、現実にたくさんの男性客がいらっしゃるようですし、多分、事務局サイドとしても、男性客が増えること(人口比率程度に)を願っているのだと推測します。では、なぜ女性監督の作品だけを集めるのかということになりますが、私の知るところ(ですから、間違っているかもしれません)では、女性監督支援のため、そして男女共同参画社会実現ため(主催があいち男女共同参画財団です)ということのようです。で、「ゆれる」です。あいち国際にはリストアップされていませんが、女性監督、西川美和監督の作品で、かなり評価は高いようです。以下、ネタバレあります。詳しいストーリーは、公式サイトとかで見ていただくとして、できるだけ簡潔に要点を書きますと、兄弟の心の揺れ動きを吊り橋の揺れにかけて丁寧に描いていくという心理劇的要素の強い映画ということになるかと思います。その「ゆれ」が顕在化する発端になるのは、兄弟が共に知る幼なじみの女性の死です。兄は家の跡を継ぎ、弟は家を飛び出し東京で成功しています。母の法事(だと思います)のため、弟が久しぶりに戻り、兄弟と幼なじみの女性三人でピクニックに行きます。そして、女性は吊橋から落ちて死にます。一緒にいたのは兄です。弟は、その現場を目撃します。兄は、自分が突き落としたと自白し殺人の罪に問われます。弟は、それを救おうと奔走します。映画はこのあたりの微妙な兄弟の心の揺れを丁寧に描いていきます。さて、私はスクリーンを観ながら考えます。女性監督の視点って何だろう? 女性であるがゆえのまなざしってあるのだろうか? そりゃ、あるでしょう。だって、女性として育てられた者にしか見えない側面ってのはきっとあるはずです。でも、これって何か変だな。もうすでに私達は、女性監督というくくりが、女流作家や女流棋士と同様に、社会的性差を逆の面から補完する言葉だと知っていますし、男性監督の視点などというものが問題にされたことは、一度だってないのです。でも、何か女性監督の…ってありそうな気がしてきます。ああ、刷り込まれてるって嘆きつつ、ちょっと、こんなふうに考えてみましょう。女性である西川監督の視点は何でしょう? 西川監督がみているのはどんな世界なんでしょう? (こんなことを考えながら観てるってことは、どうも映画に集中していませんね…。)はたと気づきます。この映画、女性が出てこないじゃん。母親はすでに死んでいます。兄は、家業のガソリンスタンドを継ぎ、炊事洗濯の家事もこなしながら、父親と二人で暮らしています。件の法事の席では、弟が母についてこんなことを言います。「一生油くっさいとこに押し込められてよ!」(正確ではありません)つまり、母は父の犠牲になって報われない一生を終えたと父をなじっているわけです。そして、吊り橋から落ちた女性です。彼女は、弟が東京へ出る前に付き合っていた女性であり、どうも一緒に東京へ出ないかと誘われ、ついていかなかった過去を持つようです。今は、兄が切り盛りするガソリンスタンドで働き、兄は彼女に思いを寄せています。法事の夜、彼女は誘われるままに弟と寝ることになります。そして、次の日、吊り橋から落ちていきます。映画は、このあたりまでで30分くらい、プロローグといえると思います。彼女はことの発端をつくる役割を担わされて死んでいったわけです。ということで、映画は、見事に男たちだけの世界に突入していきます。兄弟の心のゆれは、法廷という場に持ち込まれ(ここらあたり、え?こんな裁判ってあるの?とかなり意表をついています)、弁護士であるおじさん(父の兄)をも巻き込んで、ほんとに、ほんとに、女性が出てこない展開となっていきます。実際に出てこないだけではなく、その陰さえもそぎ落とされているのです。確かに、女性への殺意が争われたりということで扱いとしてはそれなりにあります。しかし、一貫して描かれるのは、兄弟間の心のゆれであって、その女性へのものではないのです。母の意志も何も考慮することなく、母の人生はつまらなかったと言わせてしまう。地方に残された女には、男についていかなかったばかりにパッとしない人生を送らせ、ひょっこり舞い戻った過去の男にもう一度夢をみさせたりする。西川監督は、そこまで徹底的に(私にはそう見えるということです)女性の存在を排除することによって、何を浮かび上がらせようとしたのでしょうか? 人物配置を見てみましょう。地方の生活がいやで家を飛び出した弟、家の跡を継ぎ、性格は優しいがもてない兄。うーん、よく考えてみると、これって、かなりよく使われる兄弟のパターンですよね。おや、そういえば、おじさん…、兄の弁護をするおじさんも同じですね。東京に出て、ある意味成功している人物です。こんな場面がありました。父親とおじさんが、地方に否応なく縛られる者と出て行った者との立場から、お互いのわだかまりをぶつけ合うのです。こうしてみると、この映画は、徹底して、地方×都会、守る×捨てる、残る×出る、束縛×自由といった対立項の中の男たちを描いていることになります。そして、さらに言えば、多分、多くの男たちは、人生のある時期、この対立項が、人生を左右する決定的なものとして、否応なく、自らに追い被さってきたという経験を持っているに違いないと思うのです。ああ、男たちって、こんなしがらみの中で、生かされ、もがいているんだなあ…。って思えてきませんか?さて、さて、西川美和監督の見ているのはいったいどんな世界なんでしょうか?引用描こうとしたものは「兄弟という、血のつながりだけで結ばれた2人の関係性の希薄さ、危うさ。そして、その先にある可能性です。私の希望は人間と人間のつながりに希望を見つけること」「シネトレ」西川美和監督舞台挨拶監督の意に反して、この「斜め切りジェンダー的映画評」的には、あのラストシーン、出所後の兄が見せる笑顔が、すべてを捨てることによって始めて得られた本当の自由と開放の笑顔に見えてくるのです。しかし、それを許す社会への道のりは、果てしなく遠いものとも思えるのです。http://aiwff-annex.net/modules/xeblog/?action_xeblog_details=1&blog_id=45
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